【節分】行事の歴史を紐解く

節分

節分とは季節の変わり目のことです。
節分は立春・立夏・立秋・立冬の前日のことで、1年に4回あります。
中でも立春の前日の節分は、新年を迎える前日、つまり大晦日にあたり、特に大切にされていました。
季節の変わり目には邪気が生まれると古くから信じられていて、その邪気を追い払うための儀式が宮中で行われていました。
大晦日に行われていた行事が、現在の節分行事につながっています。

昔は大晦日である節分に何が行われていたのでしょうか。
ここでは節分行事はもともとどのように行われていたのかをご紹介します。

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もともとは疫病払いのまじないでした

古くは文武天皇(もんむてんのう)の時代にさかのぼります。
時代でいうと飛鳥時代の706年に、疫病が流行して多くの農民が死んでしまったことから、土牛を作って病気を払ったという記載が「続日本記(しょくにほんぎ)」にあります。
これが年中行事の厄払いとして定着していったようです。
陰陽師(おんようじ・おんみょうじ)によって行われた厄除けのまじないでした。
陰陽師というのは、律令制度(りつりょうせいど)における官職のひとつで、技術系の仕事をする人たちでした。
律令制度というのは、国家を統治するための法制度のことです。

文武天皇は14歳、今でいうと中学2年生で天皇になり、大宝律令(たいほうりつりょう)を作った人です。
大宝律令が制定されたことで、天皇を中心とする日本の政治的なしくみが始まりました。
初めての日本の元号「大宝」が定められたのも文武天皇の時代です。
この頃は中国からの大陸文化が続々と伝わってきました。

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平安京にはまじないの人形がたくさん


そして時は流れて平安時代。
967年に施行された「延喜式(えんぎしき)」では、色をつけて土で作った童子(どうじ)が牛を引く形をした「土牛童子(どぎゅうどうじ)」という人形を宮中の門に立てることが、宮中の年中行事として定められていました。
延喜式というのは、平安時代中期にまとめられた律令という法体系の施行細則のことです。
律は刑法、令は主に行政法や民法にあたるものです。
童子というのは、身分の高い人の身の回りの世話をする少年のことをいいます。

土牛童子は、大寒の日の前日の夜中に立てられ、立春の日の前日、つまり大晦日の夜中に処分されました。
土牛童子は、大内裏(だいだいり)という場所の門に立てられました。
大内裏というのは、天皇が住んでいる場所と政府の組織が置かれた区域のことです。
大内裏には主な門が12あり、東西南北に3つずつありました。
その中の東の2つの門には青、南の2つの門には赤、西の2つの門のには白、北の2つの門には黒の土牛童子が立てられ、東西南北それぞれの残りの1つの門には黄色い土牛童子が立てられました。
青は春、赤は夏、白は秋、黒は冬、黄色は土であり、土は木や火、水などとつながっているものという意味合いがありました。

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鬼を払う儀式


また、大晦日の戌の刻(午後8時ころ)からは、「追儺(ついな)」という儀式が行われました。
もともと中国で邪悪なものを避ける行事として大晦日に行われていました。
日本でも大陸文化を採り入れた際に宮中で行われるようになり、宮中行事として定められていったようです。

中国で行われていた儀式は大儺(たいな)などと呼ばれます。
鬼たちを恐れさせる踊りがなされた後に、その鬼たちを内裏(だいり)の門から追い出して都の外へと払いました。
内裏というのは、天皇が住んでいる場所のことです。
「儺(な)」という字には「はらう」という意味があり、方相氏(ほうそうし)は大儺(たいな)などと呼ばれ、鬼を払う存在とされていました。
方相氏は、4つの目を持つ面をつけて、右手に矛、左手に大きな盾を持ち、鬼を払ったり行事を執り行っていたといわれています。

日本でも大儺という名前で呼ばれていました。
儺人(なじん)といわれる役が、桃と葦で作られた弓を持ち、方相氏たちは内裏を回って鬼を追い、陰陽師が鬼にお供え物を捧げて祭文を読み上げる、という内容でした。
方相氏たちが鬼を追い払って門の外に出ると、鼓(つづみ)という楽器の音で知らせて、厄払をしたようです。

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儀式の中での役の変化


年代が進むにつれて、鬼を追う役であった方相氏たちが弓矢を向けられるようになっていったようです。
方相氏が身につけていた面が怖かったから、など諸説があるようです。
日本での儀式の中で、目に見えない存在であった鬼が、目に見える鬼として追われるかたちへと独自に変わっていきました。
鬼を追う、というところから名前も「追儺(ついな)」となったと考えられています。
平安時代前期には「大儺」との記載が見られますが、平安時代中期には「追儺」という呼び名が使われていたそうです。

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まとめ

土牛童子のまじないと追儺の行事は、どちらも大晦日に行われたことから、ふたつが合わさって現在行っている節分の内容へと発展していったようです。
これが節分で鬼を追いかけるもとになっているのですね。
節分に行事を行う風習があるのは世界で日本だけなのだそうです。
歴史ある風習を大切にしていきたいですね。

 

 

 

 

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